命のために咲く桜はどんな花でも美しい
草月流家元、勅使河原茜 世界に咲かせる前衛の花の遺伝子。
いけばな草月流 第四代家元 勅使河原茜「前衛の遺伝子」

昭和初期、従来のいけばなに異を唱える青年たちにより、
「前衛いけばな運動」が起こった。その運動の中心人物の一人、
草月流を開いた勅使河原蒼風は、造形芸術としていけばなをとらえ、
第二次大戦後の世界にいけばなを発信した。
蒼風の孫にあたる第四代家元、勅使河原 茜氏は、2017年の草月創流90周年に向け、
前衛のIKEBANAを世界の仲間たちと共有することを目指す。

昭和初期、従来のいけばなに異を唱える青年たちにより、 「前衛いけばな運動」が起こった。その運動の中心人物の一人、草月流を開いた勅使河原蒼風は、造形芸術としていけばなをとらえ、第二次大戦後の世界にいけばなを発信した。蒼風の孫にあたる第四代家元、勅使河原 茜氏は、2017年の草月創流90周年に向け、前衛のIKEBANAを世界の仲間たちと共有することを目指す。

勅使河原茜(てしがはらあかね)

1960年、多方面に活躍した前衛芸術家で草月流第三代家元の勅使河原宏の次女として生まれる。祖父で初代家元の蒼風(そうふう)、叔母の第二代家元・霞から、いけばなの手ほどきを受けて育つ。幼稚園教諭を経て、1985年草月会・広報部に勤務。1989年草月会副会長となり、「茜ジュニアクラス」を創設。1991年より国内外でインスタレーションやデモンストレーションを展開。2001年第四代家元を継承。世界のあらゆる世代に向け、いけばなの魅力を発信している。

勅使河原茜氏は、自分が育った家庭を「ちょっと変わっていた」と振り返る。
父親は、映画『砂の女』『豪姫』などの監督としても著名な勅使河原宏。
幼少期は忙しい両親よりも、同居する祖父母と過ごす時間が長かった。
その祖父は、昭和のいけばなの革新者、草月流初代家元、勅使河原蒼風である。

勅使河原茜氏は、自分が育った家庭を「ちょっと変わっていた」と振り返る。父親は、映画『砂の女』『豪姫』などの監督としても著名な勅使河原宏。幼少期は忙しい両親よりも、同居する祖父母と過ごす時間が長かった。その祖父は、昭和のいけばなの革新者、草月流初代家元、勅使河原蒼風である。

 蒼風は弟子には厳しい人だったそうですが、私たちには甘かった。怖いと思ったことは一度もありません。家の中では、チャーミングで、アスコット・タイが似合うオシャレなおじいさん。すごい人だと本当にわかってきたのは、この世界に入ってからです。
 蒼風は若いとき「あれがいけばなか」と壮絶な非難を受けました。それに負けず自分の世界を切り拓き、地道に仕事を広げ、やがては周囲も認めざるをえなくなっていったのです。第二次大戦後には、「こんな大変な時代に、いけばななんて」という視線もあったと思います。また、戦災のまちに美しい花はほとんどなかったでしょう。でも蒼風は、焼け野原で鉄くずなどを拾ってきて、新しい作品をつくった。それでまたいけばな界は仰天しましたが、「こんなときこそ、面白いこと、楽しいことをやらなくては」という気持ちはすばらしい。彼に刺激を受け、「よし、自分も立ち上がろう」と感じた人も、たくさんいたと思います。

いけばなの革新を志す青年が創始した草月流

日本では平安時代すでに邸宅内で花の枝などを壺に入れるなどして、季節を楽しんでいた。また、寺院での供花、神社の榊など、宗教と植物の関わりも深い。こうした文化を背景に、室町時代、書院の床の間に花を飾ることが盛んになった。その分野ですぐれた才能を発揮した、京の六角堂の僧侶(池坊)が、いけばなの源流とされる。江戸時代にはさまざまな形式や流派がつくられ、日本の生活に定着した。
近代に入ると、新時代に合ったいけばなの研究が始まり、1927年、当時27歳の勅使河原蒼風は、より自由ないけばなを目指して草月流を創始。1930年には、作庭で有名になる重森三玲らと「新興いけばな宣言」を発表した。第二次大戦後、蒼風の率いる草月流は、いけばな愛好者の裾野を広げることに成功。同時に、いけばなを造形芸術ととらえ、前衛いけばなの可能性を追求した。蒼風は1979年に没するが、その後も草月流は前衛の姿勢を崩すことなく現在に至る。

  • いけばなの革新を志す青年が創始した草月流

少女時代の勅使河原茜氏は、祖父や叔母(第二代家元 勅使河原霞)から、
いけばなの手ほどきを受けていたが、将来の仕事として考えたことはなかった。
子ども好きの内気な少女が志した職業は、ごく普通の幼稚園の先生だった。

少女時代の勅使河原茜氏は、祖父や叔母(第二代家元 勅使河原霞)から、いけばなの手ほどきを受けていたが、将来の仕事として考えたことはなかった。子ども好きの内気な少女が志した職業は、ごく普通の幼稚園の先生だった。

 わが家では日常的に岡本太郎さんや勝新太郎さんが遊びに来ていて、父と芸術論を戦わせたりしていました。その様子を見ていて、「いけばなも芸術なんだな」と感じましたが、自分の仕事として考えたことはなかったように思います。
 父は娘三人の将来について、「好きな仕事をしなさい」と言うだけでした。放任主義のようで、子どもをよく理解していた父でもあります。強く印象に残っているのは、高校時代、留学先に向かう途中で、「本当は留学したくないなら、やめてもいいよ」と言ってくれたこと。それで留学をやめて帰国したくらい、当時の私は内向きの性格だったのです。
 その後、子どもが好きだったので、「好きなことを仕事に」と、幼稚園教諭になりました。先生として子どもの前に立ってみると、子どもは興味を持たないと見ないし、聞かない。どうしたらこっちを見てくれるか、話を聞いてくれるか。その試行錯誤の中で、人に思いを「伝えること」「伝わるように伝えること」を意識するように、自分が変わっていきました。

  • 1978年完成の草月会館は、建築家、丹下健三が設計を手がけ、第三代家元の勅使河原宏と交流が深かった彫刻家イサムノグチの石庭「天国」を1階に収める。カーテンウォールの窓ガラスが、向かいの赤坂御所の緑と青空を反射する。
    1978年完成の草月会館は、建築家、丹下健三が設計を手がけ、第三代家元の勅使河原宏と交流が深かった彫刻家イサムノグチの石庭「天国」を1階に収める。カーテンウォールの窓ガラスが、向かいの赤坂御所の緑と青空を反射する。
  • 丹下健三の作品は、広島の平和記念公園や東京都庁など数多いが、隣接する赤坂御所の緑を採りこむ草月会館は本人がとくに気に入っていたものの一つといい、存命中は会館内にオフィスを構えていた。
    丹下健三の作品は、広島の平和記念公園や東京都庁など数多いが、隣接する赤坂御所の緑を採りこむ草月会館は本人がとくに気に入っていたものの一つといい、存命中は会館内にオフィスを構えていた。
  • 草月は初代から現在まで異分野のクリエーターと積極的に交流してきた。近年では、世界的に注目されるデザインオフィスnendoが、2015年に談話室とカフェのリニューアルを担当し、デザイン業界の注目を集めた。
    草月は初代から現在まで異分野のクリエーターと積極的に交流してきた。近年では、世界的に注目されるデザインオフィスnendoが、2015年に談話室とカフェのリニューアルを担当し、デザイン業界の注目を集めた。

社会人5年目、別の幼稚園に転職しようとしている娘に、
第三代家元の父が「草月にも面白い仕事があるよ」と声をかけた。
軽い口調の誘いを受けつつ、草月会館が一生の仕事場になる予感もあった。

社会人5年目、別の幼稚園に転職しようとしている娘に、第三代家元の父が「草月にも面白い仕事があるよ」と声をかけた。軽い口調の誘いを受けつつ、草月会館が一生の仕事場になる予感もあった。

  • 師範の有資格者を対象としたクラスでの指導風景。初心者の場合、自分が好きな材料や花器を選ぶことも学びとなるが、キャリアが長くなるほど幅を広げることも大切に。そこで、この日の参加者にはくじ引きで当たった花器と材料でいけてもらい、「いつもの自分」から逸脱することを促した。
    師範の有資格者を対象としたクラスでの指導風景。初心者の場合、自分が好きな材料や花器を選ぶことも学びとなるが、キャリアが長くなるほど幅を広げることも大切に。そこで、この日の参加者にはくじ引きで当たった花器と材料でいけてもらい、「いつもの自分」から逸脱することを促した。

 草月会で普通に職員として4年半ほど働いた後、副会長という立場で家元を手伝うようになりました。父の仕事ぶりは、とにかく妥協をしない。諦めない。何に対しても、「どうでもいい」と言うことが一切ない。それで周りの人が大変な思いをすることも多いのですが、それでも人がついてくる。簡単に諦めるリーダーでは、周りの人も「どうせ諦めるだろう」と、ついてこなくなるのかもしれません。
 2001年に家元に就任し、「宏先生の時代とは変わった」と言われます。でも、草月ではそれは悪い意味ではありません。草月では一定の場所に安住することを、進歩がないと捉えます。生徒さんたちは先生から「言われたことをずっと守っているだけではだめ」と言われます。
 自分で考えることを「難しい」と感じる人もいるようです。そういう人をどうやったら「楽しい」と感じられる場所に連れ出すことができるか。父は圧倒的な存在感で人を引き付けていましたが、誰もがそれを真似できるわけではありません。相手に伝わるように伝えることに、指導者としての力量が問われているように思います。

日本では「前衛」と名がつくものは難しいと思われがちだが、
勅使河原茜氏は、前衛であるからこそ、
一人ひとりが自分らしく自由に楽しむことができると考える。
そして、その思いをあらゆる世代に向けて、
しなやかな言葉で語りかけている。

(後編 「花の変化と創造」編へつづく)

日本では「前衛」と名がつくものは
難しいと思われがちだが、
勅使河原茜氏は、前衛であるからこそ、
一人ひとりが自分らしく
自由に楽しむことができると考える。
そして、その思いをあらゆる世代に向けて、
しなやかな言葉で語りかけている。

(後編 「花の変化と創造」編へつづく)

PREMIST SALON MOVIE IKEBANA SOGETSU IN TOKYO
IKEBANA SOGETSU IN TOKYO PHOTO GALLERY 1
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