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スタッフからの現地便り

きつきの歴史★太古から近代まで~

  • 更新日:2009年12月21日
  • カテゴリ:歴史
ロイヤルシティ別府湾杵築リゾートが在る~大分県の杵築(きつき)。  
昔は木付(きつき)と云われた杵築の歴史を、古代の時代から検証してみます。


(守江湾の公園に建つ石碑)
物集 高世(もずめ たかよ)の句が、刻まれている
高世は、杵築藩の商家で生まれた国学者   生1817年~没1883年





日本神話の時代
 別天津神(コトアマツのカミ)による宇宙の創造 = 日本版のビッグバン?
 国之常立神(クニノトコタチのカミ)による天地開闢(てんちかいびゃく = 天地創造)

中生代 ジュラ紀
 2億年前にカブトガニが出現~当時、杵築守江湾での生息は不明
 
      ※カブトガニ誕生の2億年後に建つ、守江湾干潟の生息地の看板。
         希少種のアオギスも棲息しています。
          ここの干潟では、春に潮干狩り・冬に牡蠣フェアで、とても賑わいます。


旧石器・縄文時代
 別府湾や瀬戸内海沿岸では、舟での往来交流が盛んに行われていました。
 大分県姫島産の白い黒曜石は、瀬戸内を超えて、越後まで流通しています。
 姫島や国東半島は、瀬戸内海西口の海上交通の要衝地でもありました。

古墳時代
 大分県内で発見されている古墳の1/5が、杵築市内に集中しています。
 4世紀中ごろ建造~小熊山(こぐやま)古墳
 5世紀前葉に建造~御塔山(おとうやま)古墳
 7世紀初頭まで連続して10基も建造~七双子(ならぞうし)古墳群
   
※七双子の池には大蛇伝説が有りますので、渡来系豪族の可能性が高いですね~
     ※太古から人々が住み着き、豪族による村~郷~小国があったと思われます

(民話による、きつきの由来)
  大昔、すごく大きな大木が、伊予国(四国の愛媛県)に立っていました。
  あるとき、この大木が伊予灘をまたいで倒れてしまいました。
  この倒れたの先端がいた対岸の地が、『木付』と命名されました。
  <考察>
  ・
民話が事実なら、高さ100キロメートルを越す超巨木です。
  ・
この民話は、愛媛県にもあるそうなので、大昔からの海上交流が伺えます。
  ・いずれにしても、古代の人は、大きな物と大げさに話す事が大好きです。
  ・
古代人は、四国から伸びる佐田岬半島を、倒れた巨木に見立てたのでしょう。
  ・
また九州の各地には、大巨人の大人弥五郎(おおひと やごろう)民話が有ります。
  
飛鳥時代
 伝承では、571年に八幡神(応神天皇)を祀る八幡社が、宇佐にできました。
 八幡社建立は、古豪の宇佐氏・渡来の辛島氏・官人宮司の大神氏が関与~

 大昔の九州は筑紫と呼ばれ、豊・筑・肥・日・壱・対の州に分かれていました。
 大化の改新後の律令により、五畿七道 の行政が細かく国分けされます。
 695年には西海道でも豊州が、豊前と豊後に国分けられました。
 国府や郡府が置かれ、国分寺・国分尼寺も建立されていきます。
 ( 九州 = 豊前/豊後 ・筑前/筑後 ・肥前/肥後 ・日向/薩摩/大隅 )

奈良時代
 713年編纂の豊後風土記には、 豊後国 速見郡 八坂郷 と書かれています。
   (当時の速見郡には、八坂・山香・大神・由布・朝見の各郷が在りました)
  ※国府や下部行政府には、司・介などの役職に中央官人や土豪らが就任したようです
 ※八坂郷の郷府は、八坂小学校にあったと推測されています
 ※八坂郷には、八坂神社縁の出雲流の末裔官人が下向していたのかも知れません

 宇佐八幡社の主導により、国東半島で神仏習合の六郷満山が始まる。
 728年~奈多(なだ)八幡社が建立される。

(奈多八幡) 
※奈多八幡は、宇佐八幡の「海の正倉院」と云われ、市杵島姫が降臨された聖地です


(海辺にある奈多八幡宮の沖に浮かぶ鳥居)
※この鳥居があるところに、市杵島姫が降臨されたと云われています
※海上安全神の市杵島姫は、宗像大社や厳島神社などにもお祀りされています


平安時代
 豊前・豊後は、弱体化した律令と、宇佐八幡宮の荘園との二重支配となる。
 荘園内の武門人らが、やがて豊後武士へと発展し、勢力を持ちだす。
 1173年~木付の若宮八幡で、市が始まる。
 1184年~豊後武士の大将:緒方 惟栄が、宇佐神宮を焼き討ちする。

鎌倉時代
 1206年~幕府御家人で大友宗家:大友 能直が、豊後守護となる。
       (豊後武士の多くは、家臣として下臣していきました)
 1250年~大友家二代の六男:大友 親重が、木付に入封し、木付と名乗る。
       幕命により、守江の竹ノ尾に、武者所が配置される。
 1333年~大友家六代:貞宗は、
       一旦は九州に下野した足利 尊氏に付き、倒幕に寄与する。

室町時代
 1393年~木付家四代:頼直が、台山に連郭式平山城の台山城を築く。
       台山が牛の寝姿に似た形から、城は臥牛城とも呼ばれる。
  
 (台山に築かれた、お城の鳥瞰図)
 手前の八坂川と高山川に挟まれた台山は、
 守江湾に半島のような形で突き出た天然の要塞です。
 天守楼は、右端にありました。

 
  (一松邸の高台から、八坂川の河口を写す)
 ※川に掛かる杵築大橋の奥が、干潟が残る守江湾
 ※杵築大橋の左側の緑の高台(台山)にあるのが、杵築城


(戦国時代)
 1578年~宗家21代:大友 宗麟が、島津軍に大敗を喫す。
       以後、島津 家久が、豊後領内に大侵攻してきます。
 1586年~臥牛城(木付城)は、島津軍により包囲されました。
       攻めてきた島津の部将は、新納(にいろ)武蔵守勢。
       木付家16代:鎮直(しげなお)が、二ヶ月篭城の末撃破する。
       以降、木付城は、勝山城と呼ばれる。
 
桃山時代
 1593年~大友家22代:大友 義統(よしむね)が朝鮮の役で失態し、
       豊臣 秀吉から改易させられる。
~大友宗家の改易を知った17代:統直は悲観し、門司の浦で自刃入水する。
~この悲報を聞いた両親も自害した為、344年に及ぶ木付家が途絶えた。

 1595年~木付は、 秀吉の寺社奉行の前田 玄以(げんい)の飛び領となる。
 1597年~前田 玄以は、丹波亀山藩の飛び領:木付を解かれる。
 ~代わり、秀吉の家臣で近江坂本城主:杉原 長房が、木付城主となる。
 ~長房は、木付城を台山から北隣の平坦地への移築を始める。
   しかし、翌年には丹波豊岡に転封となる。
 1598年~秀吉の死後、丹後宮津の田辺城主:細川 忠興の飛び領となる。
      ~木付の城代に松井氏と有吉氏が入る。

 1600年~九州版の関が原の戦い
 改易された大友 義統が、
 西軍:毛利 輝元による再興支援を受け、西方として豊後に攻め込む。
 攻められた木付城代の松井氏らは、
 中津に転封の黒田 如水(隠居前は孝高)に援軍を要請する。
 如水は、地侍や武農を兵として雇い、義統の兵を別府石垣原で撃破する。
 更に如水は、敗走する西軍の島津に対しても追撃し、
 海では兵船を沈め、陸では水俣まで追い詰めた。
~徳川 家康の命で、この追撃は中止された~

  武功により、黒田 如水・長政の親子には福岡52万石に転封される。
~壊滅した大友家であったが家康の計らいで、
  大友家は幕府旗本の高家として召抱えられる。

 1600年~東軍の武功により、細川 忠興が小倉藩主に転封される。
       (小倉藩39万9千石=豊前一国と豊後の国東・速見の両郡)


江戸時代
 1608年~落雷により、木付城の天守閣が炎上消滅する。
 1612年~小倉藩の船島(巌流島)で決闘
      小倉藩の剣術師範:佐々木 小次郎(号称は巌流)VS宮本 武蔵
      ~このとき検分役を努めたのが、木付城代の松井 興長。
      ~決闘のあと、武蔵が木付に立ち寄ったとの噂があるが・・・・・・
 1632年~細川家は、加藤家の改易後の熊本藩54万石へ転封される。
 ~代わり、播磨明石から小笠原 忠直が、小倉27万石の藩主となる。
   小倉藩の属藩の木付藩4万石へは、弟の小笠原 忠知が入封する。
 1645年~小笠原 忠知は、三河吉田藩へ転封。
 ~代わり、豊後高田藩から譜代大名:松平 英親(ひでちか)が、
        3万2千石の木付藩主となる。

 松平 英親は、三河の能見家がルーツで、家紋は雪笹。
 ~館城を平坦地に移築する ⇒ 現在の杵築中学校。
 ~城下の区画整理事業や新田開発に着手。     
(酢屋の坂)
 武家の住まいは全て高台に築かれ、城下ではたくさんの石畳の坂があります。
 酢屋の坂は、写真右の建物が昔は「お酢屋さん」だったことからの名残りです。
 この坂を登ると、家老の大原邸などの武家屋敷跡や藩校の門などが在ります。

(三河新田)
 1665年~三河から100人余の土木農民を呼び、新田の開墾に着手。



 1690年~七島イ(畳いぐさ)の栽培を奨励し、特産地化していく。
      他の特産は、茶・みかん・豊後梅(幕府への献上品)
 1712年~徳川6代将軍:家宣 の朱印状に、木付が杵築と誤記入された。
 このため、3代藩主:松平 重休は幕府に許可を得て、木付を杵築に改める。
 
※杵築(きつき)の漢字は、
   出雲大社のある島根県出雲市大社町杵築(きづき)から頂いています。


 1781年~医者・哲学者:三浦 梅園の具申により、
       藩校の学習館が創設される ⇒ 現在の杵築小学校
      ※三浦 梅園(みうら ばいえん) 1723~1789年
         杵築藩の安岐荘で生まれる。 著書『玄語』が有名です。

 1800年~城下大火~以後、城下の家屋は瓦葺きとなる           
(杵築の街並みの一部)~移築された一松邸から撮影
                白壁に銀屋根の街並みが、江戸時代に出来ました。
                豊後路の小京都とも呼ばれています。


 1810年~日本地図を作成した伊能 忠敬が、杵築藩内の測量で来藩する。
 1817年~国学者:物集 高世(もずめ たかよ)が、杵築で生まれる。
 1822年~南画(文人画)家:田能村 竹田が、杵築に来遊。
 1853年~北浜の塩田が開発着工。

近 代
 1872年~廃藩置県により、松平氏10代 227年に及ぶ治藩が終わる。
 1890年~町村制領布により合併して、杵築町が誕生。
 1912年~日本国有鉄道により、日豊本線が開通~杵築駅の完成  
 (JR杵築駅)
 白壁に銀屋根の駅舎は、杵築のシンボルの武家屋敷をイメージして造られています。


 1955年~昭和の大合併で、杵築市の誕生。
 1970年~市内外の有志者による協賛・寄付により、新 ・杵築城が完成。
 
 
(再建された杵築城の天守楼)
  城公園に整備され、夜はライトアップされます。
  その昔、河口部に建つ山城で、難攻不落の要害であったことが伺えます。

 1995年~ロイヤルシティ別府湾杵築リゾート~分譲開始。
 2006年~平成の大合併で、新生の杵築市が誕生。

                  文責:チリメン(間違っていたらゴメンナサイ)
                  撮影日(平成21年12月14日)

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