伝統に縛られない知性が、日本舞踊の格調を高める。
  • 伝統に縛られない知性が、日本舞踊の格調を高める。
  • 日本舞踊家 尾上墨雪「日本舞踊と知性」

    様々な宗教行事で舞踊を奉納し、また古代より宴で舞踊を楽しんできた日本では、
    江戸時代、演劇と舞踊の要素をもつ歌舞伎が娯楽の頂点に立つ。
    近代には西洋文化の影響を受け、歌舞伎出身の舞踊の専門家や、
    舞踊に卓越した芸妓が活躍し、日本舞踊という芸術ジャンルをつくり上げた。
    令和の日本舞踊界の重鎮、尾上墨雪氏は、科学的な知見を採り入れながら
    世界的な視野に立って日本舞踊を洗練させていくことを提唱、実践している。

    • 尾上 墨雪(おのえ ぼくせつ)

    尾上 墨雪(おのえ ぼくせつ)

    1943年東京生まれ。尾上流二代目家元である初代尾上菊之丞に師事。1964年六世藤間勘十郎に師事。同年二代菊之丞を襲名、尾上流三代家元に。1966年青山学院経済学部卒業。以後、歌舞伎、新派、宝塚、東京・新橋「東をどり」、京都・先斗町「鴨川をどり」、神戸花街「花隈をどり」などの演出・振付指導で活躍。古典の伝承と創作を活動の両輪とし、 2005年愛・地球博の日本館イベント「創生・歌舞伎をどり」プロデュースをはじめ、国際イベントでの演出や振付も行う。2002年第58回日本芸術院賞、 2007年に平成19年舞踊芸術賞。2011年長男に菊之丞の名と家元を譲り、墨雪と改名。2018年旭日小綬章。2021年グッドエイジャー賞。

    戦争中の東京に生まれ、母親と疎開した前橋で育った尾上墨雪氏。
    九歳で尾上流家元である叔父、初代菊之丞の養子となり、東京に戻る。
    家元の後継者という立場は、決して居心地の良いものではなかった。

    私の前の家元に子どもがなく、親や親戚が相談して私を跡継ぎにすることを決めたのですが、本人には重荷ですよ。稽古も好きではありませんでした。先代の指導は大変厳しく、今でいうパワハラです。我慢してやっていましたが、自分の将来を勝手に決められることへの抵抗もありました。高校三年のとき、稽古中に「もう稽古に来なくていい!」と言われ、「わかりました!」と、ピタッと稽古を止めてしまいました。

    日本舞踊はもう止めたつもりでしたから、大学は就職のために経済学部を選び、体育会の射撃部に入りました。射撃では前の東京オリンピックの代表選考の一次合宿に参加するところまでいったのです。しかし、大学二年生の夏合宿中に、どういうわけか「来年はないな」「自分のやるべきことは、これじゃないな」と思ってしまいました。将来について考えても、会社勤めをする自分が想像できません。日本舞踊が自分の運命なのだろうと気づき、先代に「もう一度やらせてください」と頭を下げると、「待っていたよ」と迎えてくれました。きっと戻ると信じていてくれたんですね。

    あのとき自分から日本舞踊を選び取ることができたのは、一度離れたからこそ。その後の人生に大きな意味があったと思います。

    • 尾上流の本部は銀座七丁目、新橋演舞場の近くにある。かつては家元の邸宅があり、上京した墨雪氏はここから銀座駅近くにある中央区立泰明小学校に通った。
      尾上流の本部は銀座七丁目、新橋演舞場の近くにある。かつては家元の邸宅があり、上京した墨雪氏はここから銀座駅近くにある中央区立泰明小学校に通った。
    • 尾上墨雪氏の父、初代尾上菊之丞。尾上流は大正・昭和期に活躍した名優、六代目尾上菊五郎が初代家元として設立し、1948(昭和23)年、菊五郎の弟子、初代尾上菊之丞が二代目家元を継承した。
      尾上墨雪氏の父、初代尾上菊之丞。尾上流は大正・昭和期に活躍した名優、六代目尾上菊五郎が初代家元として設立し、1948(昭和23)年、菊五郎の弟子、初代尾上菊之丞が二代目家元を継承した。
    COLUMN 日本の多様な踊りを
    総合する「日本舞踊」

    舞踊は世界的に宗教儀式から発生したと考えられていて、日本でもアマテラスが岩屋に隠れた際、アメノウズメがエロティックな踊りで神々を笑わせたという神話が舞踊の始まりとされる。

    古代より神に捧げる巫女舞や、稲作神事としての田楽舞等、神事としての舞いがあり、朝廷では大陸から伝来した舞踊をもとに舞楽がつくられた。芸人が行う芸能では、滑稽な芸能だった猿楽はのちに音楽舞踊劇である能楽に発展。また、中世には鎌倉時代の念仏踊り、華やかに着飾った群衆が踊る室町時代の風流踊り等、民衆が参加する踊りが発展した。

    • 豊原国周「船弁慶」東京都立図書館蔵
      豊原国周「船弁慶」東京都立図書館蔵
      明治時代、歌舞伎舞踊をより格調高いものにしようとする動きが広がる中で、「船弁慶」を河竹黙阿弥が改作。 のち尾上流の祖、六世尾上菊五郎が演出を工夫し、人気演目となった。

    江戸時代初期には、出雲阿国が歌舞伎踊りを創始。その後、幕府の規制により男性のみで演じるようになった歌舞伎は、日本の様々な芸能の要素をあわせもち、江戸中期には歌舞伎役者が一人で何役もする変化舞踊が盛んになった。この頃、江戸で歌舞伎の振付をする振付師が活躍するようになり、のちに日本舞踊の流派となる。一方、京・大坂では江戸後期に地唄に合わせて踊る座敷舞が発展し、現代の上方舞につながっていく。

    明治時代、西洋文化の影響を受けて演劇改良運動が起こり、その中心人物、坪内逍遥は舞踊の改革を提言。その影響を受けた大正期の新舞踊運動が注目されるようになると、西洋の舞踊と区別するため「日本舞踊」の名が生まれた。第二次大戦後はアメリカ文化の影響も受けつつ、文芸作品の舞踊化など、創作舞踊の幅が広がった。

    • 花街の芸妓による日本舞踊の公演では、華やかな群舞が見もののひとつ。写真は、東京・新橋演舞場で行われる「東をどり」。
            1925(大正14)年に始まる東をどりは、ふだんは「一見さんお断り」の花街の文化にふれる貴重な機会となっている。写真提供:東京新橋組合

      花街の芸妓による日本舞踊の公演では、華やかな群舞が見もののひとつ。写真は、東京・新橋演舞場で行われる「東をどり」。
      1925(大正14)年に始まる東をどりは、ふだんは「一見さんお断り」の花街の文化にふれる貴重な機会となっている。写真提供:東京新橋組合

    • 第5回日本舞踊 未来座=才(SAI)=日本舞踊『銀河鉄道999』 
            本作では若手世代が流派を超えて集まり、伝統を現代に輝かせる試みとして『銀河鉄道999』を舞踊化。斬新な演出が話題を呼んだ。写真提供:(公社)日本舞踊協会

      第5回日本舞踊 未来座=才(SAI)=日本舞踊『銀河鉄道999』
      本作では若手世代が流派を超えて集まり、伝統を現代に輝かせる試みとして『銀河鉄道999』を舞踊化。斬新な演出が話題を呼んだ。
      写真提供:(公社)日本舞踊協会

    心を入れ替え厳しい稽古に励んでいた中、先代が公演旅行先のハワイで急逝を遂げた。
    思いもよらないことだったが、六世藤間勘十郎(二世勘祖)の指導のもと、
    二代目菊之丞襲名披露公演を無事に成功させ、二十一歳にして尾上流三代目家元となる。

    尾上流二代目である初代菊之丞は菊五郎さんの弟子で、日本舞踊は勘祖先生に師事しました。それで私も勘祖先生にお世話になりましたが、最初の稽古で先生は「私のことを尊敬しちゃいけない」「私の真似してもしょうがない」とおっしゃった。そのときは「えっ?」と戸惑いましたが、「つねに批判的に見て、自分の日本舞踊をやりなさい」という意味だったと思います。

    襲名からの十年は人の十倍以上のことをやりました。先代から引き継いだ新橋の「東をどり」、京都の「鴨川をどり」の指導、宝塚、新派、歌舞伎の振付といった仕事をきちんとやりながら、自分の稽古もしなくてはいけません。自分の稽古は夜中のほうが集中できるので、ほとんど寝ないでやっていました。また、強靭な身体でないと仕事が続かないので、走ったりして逆三角形の体をつくりました。故障が多い仕事ですから、体のメンテナンスのために整体にも行きます。私は日本舞踊家ですが、やっていることはアスリートと同じですね。才能というのは結局努力でつくるしかないのだろうと思います。 

    • 1965(昭和40)年2月、新橋演舞場で行われた襲名披露会より、「四季三葉草」。
            左から二人目が尾上墨雪氏。右端は六世藤間勘十郎(勘祖)氏、右から二人目は二世西川鯉三郎氏。二人は尾上流の初代家元、六代目尾上菊五郎と関わりが深い。写真提供:尾上流事務所

      1965(昭和40)年2月、新橋演舞場で行われた襲名披露会より、
      「四季三葉草」。
      左から二人目が尾上墨雪氏。右端は六世藤間勘十郎(勘祖)氏、右から二人目は二世西川鯉三郎氏。二人は尾上流の初代家元、六代目尾上菊五郎と関わりが深い。写真提供:尾上流事務所

    • 「東をどり」での指導の様子。花街の舞踊公演では、東をどりの他に、京都・先斗町「鴨川をどり」、神戸花街「花隈をどり」を担当。
            現在は四代目家元を継承した三代尾上菊之丞が引き継ぐ。写真提供:東京新橋組合

      「東をどり」での指導の様子。花街の舞踊公演では、東をどりの他に、京都・先斗町「鴨川をどり」、神戸花街「花隈をどり」を担当。
      現在は四代目家元を継承した三代尾上菊之丞が引き継ぐ。
      写真提供:東京新橋組合

    多彩な振付の仕事と並行し、定期公演での創作舞踊に力を入れてきた尾上墨雪氏。
    「創造のない伝統はありえない」「創作と古典は日本舞踊の両輪である」が長年の持論だ。

    日本舞踊は昔の通りにやっているようによく誤解されますけれど、時代とともに変わり、洗練されています。古典といわれる演目も、今残っているのは明治時代以降のもの。それ以前は記録をしないで見て盗むことをしているうちに、どんどん変わったはずです。大正時代以降は西洋のバレエの影響が大きいと思います。そして戦後にはアメリカ文化が入って、また変わりました。

    日本舞踊に限らず、日本の伝統とは昔からあるものに外から入ったものや新しいものを吸収し、抽象化してつくられたものです。たとえば現代の標準語は、日本各地の言葉の最大公約数ですよね。「いろんなものを受け入れ、抽象化する。また無駄を省くことによって洗練される」。それをやっていくのが知性です。

    そもそも江戸時代の人と現代人では身長が20㎝くらい違います。それだけ違うと同じ力学では踊れません。昔の人が簡単にできたことも現代人には難しい。そして、現代の生活は国際的です。とくに銀座は世界のものが入ってきます。日本舞踊も世界の舞踊を吸収し、新たな肉にしていく。より深く面白いものにしていく。知性を働かせ、さらに洗練させていくことで次の時代に残るものとなるのです。

    • 2007(平成19)年9月国立劇場大劇場で行われた「第30回記念冬夏会 道成寺昔語、清盛」より。創作では照明や音楽にも新しい工夫を試みてきた。写真提供:尾上流事務所
      2007(平成19)年9月国立劇場大劇場で行われた「第30回記念冬夏会 道成寺昔語、清盛」より。創作では照明や音楽にも新しい工夫を試みてきた。写真提供:尾上流事務所
    • 江戸時代の男性の身長は155㎝程度といわれる。現代の男性の体格を活かすと、よりダイナミックな表現が可能となる。写真提供:尾上流事務所
      江戸時代の男性の身長は155㎝程度といわれる。現代の男性の体格を活かすと、よりダイナミックな表現が可能となる。写真提供:尾上流事務所
    ダーウィンの「変化できるものが生き残る」ニーチェの「脱皮しない蛇は死ぬ」。尾上墨雪氏はこれらの言葉を日本舞踊に当てはめ、変わり続けることは生き残るための最も確かな方法であると考えている。(後編へ続く)
    ダーウィンの「変化できるものが生き残る」ニーチェの「脱皮しない蛇は死ぬ」。尾上墨雪氏はこれらの言葉を日本舞踊に当てはめ、変わり続けることは生き残るための最も確かな方法であると考えている。(後編へ続く)

    ダーウィンの
    「変化できるものが生き残る」
    ニーチェの「脱皮しない蛇は死ぬ」。
    尾上墨雪氏はこれらの言葉を
    日本舞踊に当てはめ、
    変わり続けることは生き残るための
    最も確かな方法であると考えている。
    (後編へ続く)