大和ハウス工業株式会社

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[第18回ダイワハウス コンペティション]結果発表

審査委員講評

審査委員長

青木 淳

今回のテーマでは家が笑うのか、人が笑うのか、主語も含めて、さまざまな案が出てきました。「笑い」をどのように捉えているのか、それを建築としてどのように解くのかが、このテーマの面白いところだと思います。最優秀賞の「余白と結構Ⅰ」は笑いの定義から考え、建築に繋げる道筋も明快で最優秀賞にふさわしい案でした。それとは正反対の姿勢である優秀賞の「空中アトリエ」は、ある意味では私たちが重要だと思っている建築の事柄を全否定しており、現代の建築に対して刃を向ける案だと感じます。建築は設計者やそれを学ぶ人以外にも広く関わるものです。提案者の藤田さんは農業をされていることから、専門外の人がコンペに応募し刺激的な案を出してくれることで、コンペの枠組みを広げるきっかけになったともいえます。

審査委員

堀部 安嗣

建築に正解はないと思っています。ただ、「喜びを感じるもの」と「感じないもの」は存在します。建築がこれだけ溢れ、エネルギーの枯渇や建設費の高騰の中でも、なぜ「建築をやるのか」と問われると、それは「喜び」のためです。そういった視点をもっていなければ、建築をつくる必要は無いと思います。笑うことや住まう喜びに対して、つくり手は心から楽しいと思い設計し、それが住まい手に伝わる。そのようなシンプルな構図の軸があるべきです。最優秀賞の「余白と結構Ⅰ」では内側から滲み出る建築をつくる喜びが高評価に繋がったのだと思います。今の建築に対する反動、アンチの姿勢で建築をつくってもよいですが、その中でもそれぞれが信じる軸となるものをもってほしいと感じました。

審査委員

平田 晃久

先日、五十嵐太郎氏の「景観を笑う」という巻頭論文(『新建築』0412)を読みました。その中で、チェコ出身の作家であるミラン・クンデラの「ふたつの笑い」を引用していました(『笑いと忘却の書』、集英社、1992年)。「悪魔の笑い」は無秩序でキッチュなものを笑うアイロニーであり「天使の笑い」は秩序や人生の価値、不滅性を称揚する微笑みです。しかし、どちらかの笑いで埋めつくされた世界は悲劇にもなります。笑いにはそのようなある意味での暴力性も孕んいるともいえます。その点において、最優秀賞の「余白と結構Ⅰ」は秩序立つプランニングと断片の間に生じる運動が何に繋がるのか分からない風景を描いており、いちばん興味をそそられました。また、優秀賞の「空中アトリエ」は建築のいろいろな見方を提示してくれました。

審査委員

小堀 哲夫

コンペを通して、「笑う」を考える機会になりました。「笑う」を介すことで、想像できないものや自分が不安に感じることを超えていけるのではないでしょうか。世界では現在でも戦争や紛争が起きていてます。その根底には互いの主義主張が理解できず、受け入れられないということがあると思います。人類は理解不可能なものを理解する手法として、笑いというものを編み出したのではないかと感じました。最優秀賞の「余白と結構Ⅰ」は環境を自分で広げ、変えていく感覚が、笑いに近いと感じる提案でした。「笑う家」は他者を理解するための家だと考えると、非常によいテーマだったと思います。

大和ハウス工業賞 特別審査委員

八田 哲男

応募作品を通じて「笑う」には思いのほか、多様であるとハッとさせられました。日本語でも「苦笑」や「泣き笑い」があり、いろいろな感情を含んでいると感じます。また、笑うには、漫才師の軽妙な掛け合いからも見られるように計算しつくされているともいえます。みなさんがさまざまな計算や想像をした中でつくった提案は非常に勉強になりました。私自身は「笑う」は「楽しむ」ということだと感じています。その中では人のパフォーマンスを上げる効果もあります。そのようなことを建築によって提案ができたら素晴らしいことだと思いました。

大和ハウス工業賞特別審査委員

櫻井 恵三

「大和ハウス工業賞」を授与するにあたり、大和ハウス工業のさまざまな設計部門の6名で審査を行いましたがそうした中で、今回は「あまのじゃくなエレメントたち」を選定しました。7つのエレメントのデザインには、提案者の実体験が反映されています。たとえば「不規則な階段」は山や神社の参道を登る際の、不規則な踏面や蹴上げ。「落とし穴のある玄関」では歩きスマホをしながら帰宅した時につまづいた経験など。それらを家と人が相互に働きかけるエレメントとした提案は、家と人の関係が希薄だという切実な問題意識を、よい意味で馬鹿馬鹿しく軽やかに建築に落とし込んでいると感じました。

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受賞作品

最優秀賞

岩崎 伸治(東京藝術大学大学院)
三枝 理子(設計事務所所属)

余白と結構Ⅰ

住宅は、住み手にとって明らかだといえるだろうか。畳の日焼けに気づかず生きるわれわれは、冷蔵庫を衝動買いしないし、椅子の脚に小指をぶつけたりもする。 住宅を完全に把握することはない。余白として提示された未知は何らかの方法で横滑りし、ある既知へと、爆発的に理解(誤解)される。この横滑り、(あるいは落下)こそ笑いに他ならない。家は笑うことができる。人間の想像力によって、真空が空気で満たされるような速度を伴い、 余白は空間を結構する。家に遍在する余白が、認識の内側に空間を結び続けるさまを「家の笑」として定義し、これによって笑う建築の発生を目指す。本過程は、コード化されたイメージを引用し、それらを平面に投影した図群にて現される。「家の笑」は見る者の存在によって「笑う家」へと収束を指向する。これはすなわち、余白の構築と結構に他ならない。われわれは設計者として未知と対峙し、「笑う家」をひとつ提示する。(プレゼンテーションより抜粋)

青木淳
「笑い」を利用した設計手法は設計者間だけで語られるゲームになる不安があるが、注視できない周辺部を想像の中で拡張することを笑いと捉え、設計手法に還元した点は大いに評価できる。
堀部安嗣
図面や模型から建築をつくる喜びが感じられる案である一方、視覚にやや頼りすぎだと感じた。五感のイマジネーションの展開を見たい。
平田晃久
複雑なプレゼンテーションだったが、模型はプランを想像した際に書かれる周辺視をすべて書かないことで、設計の過程や思考が立ち上がり、想像の最中のような状態が表現されており非常に面白い。
小堀哲夫
リアリティ以外のものを掬い上げる、笑いの性質を取り込んでいると感じた。どこに行き着くのか分からない不安を笑いが凌駕する提案。
八田哲男
設計途中ということで、完成した建築に笑いがあるのか想像しずらいが、笑いの論理を掘り下げ、設計のプロセスに反映した提案は、素晴らしい。

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優秀賞

藤田 博文(農家)

空中アトリエ

命を取らせない、飢えさせない、恥をかかせない、これが私のモットーだ。家が飛んで津波を避けるようにするなど、まず笑えない状態を何とかしようと思った。だがプレゼンテーションをしても説教くさい。今回のテーマが「笑う家」だった。このコンペの案を考えている中で、やはり笑いのある面白い物をつくらなければならないと思った。プロペラをたたむと家型になる家や、とげが刺さりそうで刺さらないスツールなどもそうだが、なにより空色の画用紙と食べられるかもしれない雲形のパステルを表現できてとてもよかった。3つのモットーだけでなく笑いのある物が必要なんだと思った。そのことを学ばせていただいて、とてもよかったと思う。(プレゼンテーションより抜粋)

青木淳
家が移動可能なシェルターをつくるという考えはひとつの生活スタイルを想像させ、建築のユートピアだとともいえる。凝り固まった建築への考えや、つくり方を改めて見直すきっかけとなる提案だった。
堀部安嗣
この家には水回りや寝室などの提案がないので、課題文の「ひとつの家として必要な空間を提案する」ということに応えていない。
平田晃久
プレゼンテーションや受け答えは、設計の要素やセオリーを飛び越えたもので虚をつかれた。それは、現代の建築の批評にもなり得ると感じた。
小堀哲夫
シンプルな模型やプレゼンテーションからは緻密に建築をつくることが重要な一方で、関係のないところへ飛躍する必要性を問う提案であった。

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優秀賞

森 聖雅(大阪大学大学院)

朱傘と笑窪

「家」とは暮らしの中で人と建築の間に育まれる記憶である。「笑い」とは、今と記憶の化学反応である。暮らしの中にさまざまな記憶と結びつく仕掛けをつくり、家を笑わせる。敷地は神奈川県藤沢市南部、都市近郊の住宅街である。相模湾の暖流によって夏は涼しく冬は暖かいが、敷地いっぱいに閉じたヴォリュームをもつ住宅街が広がる。都市からは秘密基地のような「私だけの外部空間」が失われた。そこで地面を掘り、大きな庭に小さな建築がある生活圏をつくり出す。朱傘屋根は日本建築が目指す自然と一体的な住まいの境地、庭屋一如の精神を表現する。常に不特定多数の目に晒された都市で過ごす記憶をフリとして、住まい手だけに開かれた笑窪の庭へと降りていく三段落ちの建築は、生活に落ち着きを与える。掘り起こされた土地の記憶に囲まれながら、やがて洞窟で暮らした遠い先祖の記憶にまで思いを馳せるかもしれない。(プレゼンテーションより抜粋)

青木淳
屋根の形状を「にやりと笑う」というような笑いの比喩としてデザインをしているが、見た人がそのように感じるかは疑問である。
平田晃久
完成度の高い提案で上品な笑いを表していると感じた。その一方で笑いがもつ秩序を裏切る暴力性もあるとよかった。
小堀哲夫
丁寧な設計は経験とデザインの作法の笑いだと感じた。大きな穴を掘ると、土や雨により周辺環境が変わる。そのような暴力性の中でポジティブに捉えることができるアイディアがあると、さらによかった。
八田哲男
造形のバランスがよい。提案者自身が住んでみたいと思える素直な設計が見られ、屋根と窪みで笑いがストレートに表現されていた。

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入選  大和ハウス工業賞

入江 匠樹(熊本大学大学院)

あまのじゃくなエレメントたち

現代的な私たちは、いつの間にか家に感情をもたなくなっていた。人間の欲望の果てに何不自由ない機械のようにつくりかえられていく家。私たちは同じ日常を無意識的に繰り返している。笑う家とは「あまのじゃく」である。自分を見てほしいと、足を引っ掛けたり、落ち葉を集めたり、家の中に雨を降らせたりして私たちのさまざまな感情に触れることに快楽を覚えている。しかし、そんな家の振る舞いが、鬱陶しくも家に対して失っていた多様な感覚を思い起こさせてくれるのではないだろうか。ここでは私自身の経験に基づいた7つのエレメントをデザインし、形態を変化させながら、大学生5人のシェアハウスを計画する。(プレゼンテーションより抜粋)

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入選

陽 林江(フリーランス)

みずから笑う

水という自然要素は古来から私たちの生活と精神に関係していた。仏教の中でも、「水=欲」という考え方がある。人びとの欲が快適に満たされている都市社会では、日常生活の中で苦労した後のほっとする笑いが少なくなった。これに対して私がもう一度人と水の関係性を熟視したら、都市にいる人間が自ら笑えるのではないかと考えた。井戸から水を汲み上げる行動では、水を得るだけではなく、人はその過程で精神的なストレスを解消していくこともある。今回の提案では、井戸から水を取るような一見不便とされる行為を計画に取り入れることとした。人びとが水との営みを通して、ほっとする。(プレゼンテーションより抜粋)

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入選

金子 豪太(京都工芸繊維大学大学院)
北野 湧也(京都工芸繊維大学大学院)

退かずの家に笑む

道路拡張に伴う立ち退きを拒否した一軒の家。その家を避けるように湾曲した道路。道路で隔たれた両岸に残る殺風景な三角地帯。一軒の空き家が生んだその不条理を人びとは嘲笑する。その狭小な三角地帯に鉄塔、小屋を施し、X状の橋を架け繋ぐ。次第にそこは子供たちや動植物の居場所へと還元され、誰もがその橋を渡り始める。看板建築である空き家は一部が外部化されることで子供たちのたまり場、町の新たな看板へと生まれ変わる。時を経て頭上に草木が茂り、緑のルーフが架かると大きなひとつの家のような風景が生まれる。もうこの家は嘲笑される家ではない。みなが集い、笑い合う家だ。(プレゼンテーションより抜粋)

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入選

益山 直貴(前橋工科大学大学院)

「にもかかわらず」の建築へ

かつて物語の世界と現実の世界という異なる位相が混ざってしまったがゆえに数奇な人生を送ったドン・キホーテ。彼は異なる世界を繋ぐことのできる「変換機」を必要としていたのではないか。それが現代になってやっと実現する契機を得たのかもしれない。本提案では、「拡大・縮小」という時間的、空間的な断絶をもたらすと同時に、次なる何かへと接続をもたらす両極的で現代的な操作を試みる。そうして本来はまったく関係のなかった建築物がインテリアへと変換されていく。それは「ドン・キホーテ」がみせたユーモアの構造そのものであり、それを建築設計方法論として組み立てることでその可能性を探る。 (プレゼンテーションより抜粋)

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佳作

黒澤 優太(早稲田大学大学院)
吉原 華鈴(早稲田大学大学院)
佐藤 奈々惠(早稲田大学大学院)

うちわ、わらい

笑いは共同体の中で生まれる。文化、政治、経済、宗教などにおいて深く結びついた人びとは共通の記憶を保有し、共感の笑いはそんな場所で起きるとすると、それは内輪ネタではないだろうか。連鎖の力と排斥の力が作用する内輪ネタだからこそ上手に使わなくてはいけない。「ここにぼくらだけの内輪ネタをつくろう。」そこにしかない距離感やかたち、素材から楽しかった日々の記憶、悲しいあの日までを懐かしむように、笑い合うように。 (応募案より抜粋)

うちわ、わらい<PDF:3.21MB>

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小西 勝義(SARUA)

自分でつくる家

鹿児島県さつま町の過疎化した廃校のある空農地に自らの手で住まいと作物をつくる。自らつくる家の大きさは古代の竪穴式住居から、家族の納まる最小寸法を現代の自動車から考察し間口5m角、高さ2.4mとした。ランドスケープは中心にある梅の大木が担い、四季で行動を示唆する。人間の体は10,000年後も変わらない。五感の届く距離で寄り添う住まいこそ原型であり、未来と考える。自然の恵みで生かされ脅威で命を学ぶ、地に足をつけた暮らしは現代社会では気付けない小さな幸せが訪れる。すべての環境と生物は互いに笑みを浮かべ永遠を願う。(応募案より抜粋)

自分でつくる家<PDF:3.86MB>

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矢野 泉和(九州大学大学院)

カラダジカケの童力

子供時代の私たちは、遊具によって、多くの経験を得た。友人との時間を過ごし、時には怪我をするけれども、多くを遊具から学び、成長をしてきた。つまり遊具はその頃、第2の家として存在していた。その家はわれわれが大人になるに連れて、次第に忘れ去られていく。そして多くの遊具は取り壊されていき、子供はかつての活発的な経験をするのも難しい。私はこれらの遊具で得るものを「童力(=身体的な笑い)」と定義する。童力による暮らしは、今までにない働きや快適さを感じるであろう。しかし、これらは忘れかけていたあの頃の「笑い」である。そんな力を与える家を、私は「笑う家」として提案する。(応募案より抜粋)

カラダジカケの童力<PDF:3.37MB>

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中原 佑太(フリーランス)

鐘の声

人は協調性や親しみを示す時に笑う。笑う家とは、家が協調性や親しみを示すことを想像した。鐘の音は、宗教や時報といった人びとの社会的な営みを支える協調性としての役割がある。また、定期的に聴こえてくる鐘の音は日常の安心感であり、人びとは親しみをもって受け取る。鐘を鳴らすことは音楽にも使われる。楽器としての鐘を通じて、奏者は感情を表現し、聴衆は記憶や感情を思い起こされる。音楽は協調性や親しみを示す笑いである。「笑う家」を「鐘を鳴らす家」と読み解き、鐘を鳴らすことで音楽のように協調性や親しみを示す笑う家を考える。(応募案より抜粋)

鐘の声<PDF:4.76MB>

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浅日 栄輝(法政大学大学院)
小林 大馬(法政大学)

僕/私の知らないあなたへ

ある哲学者が提唱した「ズレの理論」は、笑うという行為は身体的、精神的ズレの認識で生じる反応であるとされている。つまり他者を考え、自分を見つめ直し利他的であることが「笑う家」である。主人公は目が不自由な夫とろう者の妻。私がセットした目覚ましであなたは起きる。朝の冷たい廊下を手探りし私を起こす。僕の暮らしがあなたの生活の一部になる。僕/私の暮らしとあなたの暮らし、僕/私にできて、あなたにできないこと。他者を考え自分を見つめることで自身の可能性を見つけ出せると考える。あなたのために僕/私は暮らしに意味を与え、自身を見つめ直すきっかけとなる建築でありたい。(応募案より抜粋)

僕/私の知らないあなたへ<PDF:2.98MB>

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安藤 尚哉(芝浦工業大学大学院)

Tension House

人はストレスや緊張が高まった状態で笑いが引き起こる。これは笑いが緊張の解消手段として働き、リラックスさせる効果をもつ。私たちは日常で直面する緊張を和らげることで笑みをこぼしている。そこで「笑う家」とは住宅に必要とされる緩和に、緊張を付加し人同様に成り立つと考え、過度な緩和を実現している規格住宅の改修を行った。緩和主体の住宅の形態に緊張が生じるような要素を挿入し、人のストレス、建築のテンションを与え、住宅全体に緊張が伝播していく操作を加え住宅が生きているように知覚させ、住宅が緊張と緩和を有して住民の暮らしを受け入れることを目指した。(応募案より抜粋)

Tension House<PDF:3.72MB>

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佐藤 碧(法政大学)
竹村 敬太郎(法政大学)
竹原 佑輔(法政大学)

Closet-Scope

記憶を仕舞い思い出すことを繰り返しながら私たちは生きていく。そのループの中心となる押入れを家の隅ではなく中心に置くことで「closet-scope」をつくる。押入れの扉の大きさや開かれる頻度、可動域や空間の拡張度合いに差が生まれることでモノと暮らしが揺らぎ、記憶が仕舞われる。ふとした瞬間にその揺らぎが重なった時「closet-scope」は私たちの心の遠い場所にあるいつかの記憶を覗く望遠鏡になる。深淵を覗き込むと深淵もこちら側を覗いているように、家も忘れていた出来事を思い出して、一緒に笑う。(応募案より抜粋)

Closet-Scope<PDF:1.02MB>

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森本 爽平(法政大学大学院)
三浦 泰輔(法政大学大学院)

漫才或るいは家

漫才は相方の投げかけに対し、自分なりの解釈を通じて返答するやり取りの集積である。漫才における笑いは、掛け合いの中で受け取り側の想像力による解釈のズレから生まれる。そこで、私たちは設計手法を通して漫才のような掛け合いを行う。相手のつくり出した空間を解読し、そこに新たな操作を加えることで、つくり手と住み手の想像力を掻き立てるような住宅を設計する。リアルなモノを介し少しずつ想像を超えたものに変わる時、自然や街の人を巻き込みながら建築に笑いが生じるのではないだろうか。これは、複数の人びとでつくる建築の楽しさを演出する建築の提案である。(応募案より抜粋)

漫才或るいは家<PDF:4.66MB>

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戸巻 裕太(ものつくり大学)
藤村 圭央莉(ものつくり大学)

笑いにつられて

この町では1年に1度、3月に使ったものに感謝をするお祭りを開催する。2月になると、町のいたるところで人びとが暮らしの変化に合わせ家の中を解体し始める。そして、解体で出たものをもち寄りお祭りのための神輿を町の人みんなでつくる。お祭り当日は、みんなでつくった神輿を担いで町を回る。町全体が賑やかに華やぎ、それはまるで町が笑っているかのよう。お祭りの後は神輿を解体し町のみんなで分け、暮らしの変化に合わせた空間をおのおのが見出してまた1年を過ごしていく。この町の行事の中で、個々の笑いから、家族、家族から町、町から他県へと、笑いが連鎖していく。(応募案より抜粋)

笑いにつられて<PDF:3.53MB>

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村山 美羽(東京藝術大学)
古山 玄(東京藝術大学)

笑い合う家

キャットストリートの家たちはそっけない。なぜならこの土地の家は家ではないからだ。オシャレによって侵食された家は、生活の循環のみが抜き取られ、ただの箱に成り果てた。飾りを付け、人びとに微笑みかける。家というのは、人びとが織りなす循環する物語の鑑賞者である。この家の主人は家の代弁者だ。隣人が「笑い合う」ことで、家が笑いだす。お風呂上がりの住民は、寝室に向かって廊下となったキャットストリートを歩く。そんな姿を目撃したならば、この場所で暮らしのギャップを見つけ、ふと笑ってしまう。閉め切っていた窓が開かれ、周辺の家の生活も溢れ出した瞬間、「笑う家」が完成する。(応募案より抜粋)

笑い合う家<PDF:1.12MB>

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第18回ダイワハウス コンペティション