審査委員より


第6回ダイワハウスコンペティションでは、論文募集にあたり審査委員5名よりメッセージをいただいています。
ここには各審査委員が応募者に何を期待しているかが語られています。
本コンペに応募を希望される方は、必ずご一読ください。



【審査委員長】

山本理顕

横浜国立大学大学院教授、建築家

山本氏

開けないと風が入ってこない

「フランス人は、・・・『小さなもの』の中で幸福になる技術を習得するようになった。つまり彼らは、自分の家の四つの壁に取り囲まれ、衣装棚とベッド、テーブルと椅子、犬や猫や花瓶に囲まれて幸福になれるのである。」(「人間の条件」ハンナ・アレント)フランス人というのは正に今のわれわれ自身のことだ。なんだか“ちんけ”な幸福だけど、その「小さなもの」を供給して満足しているのがわれわれ建築家である。「『小さなもの』の中の幸福」と公共性は相互に矛盾するはずである。だとしたら、公共性なんて言わないで「小さなもの」の中に閉じこもるか、それとも四つの壁の一つくらいはこじ開けてみようとするのか。開けられるのか。



藤森照信

工学院大学教授

藤森氏

私だって公共性を考える

建築という存在の厄介さは、私性と公共性の両方を持つことだろう。両性具有の存在なんて、それだけで厄介。住宅は私性発揮の場に違いなく、近年の住宅を見ていると、ますますこの感を強くするのだが、そうした中で、「住宅の公共性」という難題が揚げられた。個人の住まう器にとって公共性などあるんだろうか? でも、今こう仕事場のあるマンション5階から東京西郊の住宅地の光景を眺めると、無残を禁じ得ない。私的に勝手に作り続けてきた結果が、このゴミ捨て場的光景なのだ。美しいのは人の作った住宅地の向こうに広がる神様の造った野山だけ。公共性について考えざるをえないだろう。



千葉学

東京大学大学院准教授、建築家
千葉氏

建築の力を信じているか?

玄関先に植木を並べて自前の風景をつくること、地べたに座って友達と時間を過ごすこと、オープンカフェでお茶を飲むこと、路上ライブで人を集めること、あるいは東京マラソンで東京中を走り回ること、こうしたことすべては、道路という公共空間を私有化したと思える瞬間にこそ快楽の源がある。そこに見る空間(あるいは制度)と行為との間に立ち現れる関係性は、公共性のひとつの発露だ。では逆に、住宅という個人所有と私性の象徴のような空間は、いかなる公共性を担うことができるのだろうか? 空間の実験場としてでもなく、自己実現の場としてでもない住宅は、構想できるだろうか? 建築に力があると、まだ信じられるだろうか?



松山巌

小説家、評論家
松山氏

馬鹿馬鹿しさに耐えろ

現代では、あらゆる価値は個人の欲望へと還元され、個人の欲望はますます増大し拡散し、市場原理に絡めとられる。この状況にあって「公共性」を問うことは、馬鹿馬鹿しいと思われかねない。にもかかわらず「住まい」は、個々人の欲望追求の器であるがために、生存の最低条件だけではなく、他者からの承認や通話を必要とするだろう。幸福を個々人が求めるのならば、現代であれ、ここに「住まいの公共性」の萌芽があると信じたい。と同時に、現代ではすべての論理が相対化される。ならば論は独断になるか、現場から問題をこつこつ拾い上げるか、どちらかになる。これも馬鹿馬鹿しいと思われかねないが、勇気をもって馬鹿馬鹿しさに耐えて欲しい。



西村達志

大和ハウス工業株式会社 代表取締役専務執行役員
西村氏

公共性のある「エコ」な住宅は「エゴ」な住宅を越えられるか

今や何をするにも「エコ」というテーマは外せない。私たちにとって前提条件の1つとなってしまった。しかし、本来グローバルに捉えるべきこのテーマには、「エゴ」に訴えかけなければビジネスとして成立しにくいという現実がある。また同様のテーマで「サスティナビリティ」があるが、時間軸で捉えた「エコ」とも言える。これらのテーマを突き詰めると必ず「エゴ」と「公共性」のジレンマに突き当たる。元々「公共性」という概念が希薄な日本人にとって、欧米のような「公共性」を望めるのか。それとも私的な「エゴ」をも満足させられるような新しい「公共性」を獲得できるのか。説得力のある論の展開と、独自の切り口による具体的な提案を望む。




 

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